1Q84

ここのところ1Q84にはまっている。今さら80年代から90年代に一世を風靡したハルキワールドに入り込むのはちょっと躊躇したけど、たくさんの要素が巧みに絡み合ったストーリー展開についついページをめくってしまう。そして、この作家が一貫としている人生哲学のようなものが、とても分かりやすく普遍的に描かれていて、過去作品を読んで今イチ自分の中に落としきれなかったものが、ストンと落ちていく感覚がある。先日テレビでこの作品のことを「村上春樹の集大成とも呼べる作品」といっていたが、まさにそんな感じだ。
話はというと、表はスポーツトレーナー。裏は殺し屋である青豆、予備校で数学を教えながら小説を書く天吾、この一見接点のない二人の物語が交互に展開する。彼らが偶然か必然か「さきがけ」という宗教団体に関わり、1Q84という異世界に入り込む事によって、決して交わることのなかったであろう二人の運命が重なろうとしている、といった話である。過去作品に共通するテーマとしては、生と死、時間における質と量の関係、不条理観といったものがあげられると思う。
生と死に関しては、生よりは死のほうに重点をおかれている。この人の作品には記憶する限り必ずといっていいほど自殺者がでるのだが、これは過去作品のどれかのあとがきによると作者自身が多感な時期に親友だか先輩だかを自殺という形で突然失うという経験をしているかららしい。人を死に追い込むのは何か、死に至らしめるのはなにかというようなものを真摯に見つめ続けてきた作家の一人なんだと思う。そして1Q84においてその答えはとてもシンプルだ。絶望による慢性的な無力感は人を蝕み、大きな欠落を自身の内側に抱える事が致死的な渦巻きの中心に向かって接近を続けることになる、ということだ。そしてこの答えによって、例えばノルウェイの森に直子という女性が登場するのだが、彼女が自ら命を絶つという選択をする過程、どの作品か忘れたけど、一見なにもかも恵まれた主人公の先輩にあたる俳優が突然命を絶ったというエピソードなどがやっと読み取れた気がする。
次に時間についてだが、1Q84はSF的要素も兼ねた作品だ。リトル・ピープルという善とも悪ともいえない大いなる存在が、均衡を保つために、強力な対抗勢力である青豆や天吾を1Q84に意図せず招き入れてしまう。そこは実際の1984年の時間が若干歪んでいる世界だ。そして時間に関して天吾が分かりやすく説明していく。時間そのものは均一な成り立ちのものだが、消費されるといびつなものに変わってしまう,そして人々は時間というものを直線で考えているが、実際はもっといびつでねじれが生じていたりする。もっと掘り下げて書かれてSF的要素を多分に含んだ作品が確か「ハードボイルドワンダーランド」だったと思う。私の頭では消化できずうろ覚えだが、確か構成もこの1Q84と似ていて近未来的都会と対照的なのどかな田舎といった二元的な要素によって話が展開し、その間を殺し屋が行ったりきたりきたりしていたような。そしてもっと回りくどい感じで時間のねじれなんかについて語られていて、代表的なアメリカのSF作家レイブラッドベリの引用がされていた。レイブラッドベリの作品も昔古本屋で買って読んだ記憶があるが、残念ながら全く頭に入っていない。名前もすっかり忘れていたが、つい先日家族で「バック・トゥー・ザ・フューチャー」を見て思い出した始末である。そんな私でも分かりやすく噛み砕いて時間というものを説いているこの1Q84という作品はとても偉大だと思う。
最後に不条理観だが、この作品の中で天吾が読む小説「猫の町」というのがとても象徴的である。読んだ事はないが、話の筋はほぼ萩原朔太郎の「猫町」をなぞっているらしい。旅好きの男がある駅で下車するのだが、そこは猫が支配する町だった。すぐ電車でもとの世界にもどることができたのだが、男は好奇心からこの町に残ることにする。日が暮れると猫達が町に集まってくるのだが、男の発する人間の匂いに気づき、男は猫達に追われることになる。そして追いつめられていくという話だが、ラスト「猫町」がいわゆる「夢落ち」であるのに対して、「猫の町」は電車が停車せず、元いた世界に戻れなくなってしまうというところがなんとも薄気味悪い感覚が残り、この話だけ抜き取ってそのまま「世にも奇妙な物語」の一作品になりそうだ。この元ネタと決定的に違うラストで私がまず連想したのが、カフカの「変身」である。不条理小説の代表的作品で、「不条理=道理にそぐわないこと」という言葉も高校の国語便覧でカフカを紹介している文章ではじめて知った。ある朝青年が目覚めると虫になっていたという冒頭からはじまる奇妙で滑稽で、不気味な読後感が残る短編である。この作品のラストもまた主人公は人間には戻らず、父親に靴でたたかれそうになる直前で話が終わる。このような斬新な作品が20世紀初頭に書かれていたのは当時の私にとって衝撃的だったのを覚えている。作者が「海辺のカフカ」というタイトルの本を出し、しかもBOOK3で、登場人物の一人である牛河の描写で「虫になったザムザのように足を動かす」という描写があったことを考えると作者はそうとうカフカに傾倒しているのではと思われる。1Q84の世界観も不条理そのもので、意図せず首都高の非常階段を降りて、異世界に足を踏み入れた青豆、次に首都高を訪れた時、池尻出口付近にもとあった非常階段はなく、退路が絶たれていた。リトル・ピープルに人生を翻弄される世界、青豆の友人あゆみは罪もなく殺され、天吾のガールフレンドである人妻もまた「失われる」。ラストはシンプルに天吾と青豆が1Q84を無事抜け出し、結ばれてほしいものだが、この作者の世界観からするとちょっと先が読めないなと思ってしまう。
テーマの他にも印象深い表現や言葉がたくさん散りばめられているのがこの本の魅力だ。BOOK2でのクライマックスシーンである青豆と「さきがけ」のリーダーが対峙するところのリーダーのセリフ「善とは、善と呼ばれるものと悪と呼ばれるもの、対極をなすものが、均衡を保っていることである。」1970年代の学生紛争時代、反資本主義を先導し、その後予言者の役割を担うことになった末の彼の言葉もまたとても簡潔で的を得ていて、一つ一つ重みがある。一方、天吾が「さきがけ」に関わるきっかけとなった小説「くうきさなぎ」の作者、ふかえりこと深田絵里子が天吾が読み聞かせたサハリン島少数民族ギリヤーク人についての感想もとても印象深い。ギリヤーク人は「道」という概念がない、したがって、目の前に広い道路があっても、彼らは家族を従えて、木々の間や沼地を通って大変な思いをして目的地に向かうという記述がるのだが、「私も広い道路を歩くのが好きではない。何故なら広い道路をあるくには新しい考えを一から構築しなくてはならないから」といった意味合いの彼女の感想は、読書障害を抱え、コミューンという特殊な環境で育ち、沼地を歩く生き方しかできないことを示唆していて、とても切なく思った。
余談だがこのギリヤーク人について書いた著者チェーホフをはじめ、冒頭にでてくるヤナーチェックシンフォニエッタなどのキーワードとも言える言葉が、天吾、青豆両方で違った形で出てくるところも巧いな〜と思う。そして、1980年代の象徴的なものとしてパジェロを過去作品と同じような描写で登場させたり、人々の関心を惹き付けるのは,静止した顔立ちの善し悪しより、表情の動き方であるという文章もどっかに同じような文章が書いてあったなとか、読んでいるといろいろ共通点が見つけられて面白い。またはじめはくどいなと思った過剰な比喩表現も、慣れてくるとくせになってくる。どうもこの独特な比喩表現がこの作品の文章スタイルらしい。など、過去作品と絡めていろいろこの作品に対して思うところがあったのでちょっと感想を書いてみた。ハルキニストと呼ばれる人達に読まれたら石投げられそうだけど。でもいいのかな。答えが一つではない、決まった答えというものがないのが文学という世界であり、それこそが数学という世界に行き詰まりを感じた天吾が求めたものなのだから。とにかくいろいろな角度から読めて何度読み返しても何かしら得るものがある。そんな作品である。
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